ホテルニュージャパン火災跡地の現在は?高級賃貸住宅になってた!

ホテルニュージャパンを取り上げます。

ホテルニュージャパンは、赤坂見附にかつて存在したホテルで、1982年の火災により廃業されています。

その後は、どのような経過を辿ったのでしょうか。

今回は、ホテルニュージャパン火災跡地の現在について調査します。

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目次

ホテルニュージャパン火災跡地の現在は?高級賃貸住宅になってた!

1982年2月8日の火災後に、ホテルは廃業しました。

跡地の競売

ホテルニュージャパンの横井社長に対して多額の貸付を行っていた千代田生命保険が、貸付金の担保であったホテルを競売にかけましたが買い手がつかず、千代田生命が自己落札ました。

千代田生命が再開発事業に着手しましたが、千代田生命自体が2000年10月に経営破綻となり頓挫。

1996年に建物が解体されるまでの14年間、このホテルは廃墟のまま放置されていたそうです。

その後、プルデンシャル生命がこの土地と建設途中のビルを買収。

オフィスと賃貸住宅から成る「プルデンシャルタワー」を森ビルと共同で建設を進めました。

跡地の現在

ホテルニュージャパン火災跡地の現在についてですが、

2002年12月16日にオフィスと賃貸住宅から成る「プルデンシャルタワー」が完成しています。

プルデンシャルタワー

プルデンシャルタワーの概要は、下記のとおりです。

  • 1 – 2階がレストランなどの店舗
  • 下層部の3 – 24階がオフィス
  • 上層部の26階以上がプルデンシャルタワーレジデンスと呼ばれる賃貸マンション
  • 別棟の2階建てプルデンシャルプラザ

プルデンシャルタワーレジデンスは、

一般賃貸住宅と家具付き賃貸住宅のサービスアパートメント(高級家具付きマンション)になっています

外国人ビジネスマンをターゲットとした総戸数は125戸。

この内約7割の85戸をサービスアパートメント(高級家具付きマンション)としています。

ですが、惨劇を2度と繰り返さないために、下記のような完備をしているそうです。

  • 早期火災感知システム
  • 加圧防排煙システム
  • 屋上にヘリコプターのホバリングスペース
  • オフィスと住居を連結する25階部分に「空中一時避難待機スペース」
  • 自家用発電の設備
  • 地下1階に防災備蓄倉庫を設置

安全性を完備していて安心ですね。

ホテルニュージャパン

ホテルニュージャパンについて。

ホテルニュージャパンが建つ前

ホテルニュージャパンのあった東京都千代田区永田町の土地は、

元々、二・二六事件の際に部隊が立ち寄った日本料亭「幸楽」の跡地でした。

幸楽は戦時中の空襲で消失しました。

高級レジデンス

その後藤山愛一郎率いる藤山コンツェルンが設立母体となり、高級レジデンスとして着工。

建物は、大隈講堂の設計者(佐藤功一と共同設計)で、建築音響学の権威として知られた佐藤武夫が設計。

建物は、大隈講堂の設計者(佐藤功一と共同設計)であり建築音響学の権威として知られた佐藤武夫が設計した。

引用:ホテルニュージャパン

ホテルへと改装

さらにその後、1964年東京オリンピックの開催や、高度経済成長期に急増した宴会等の需要目的で、建物の北側を除く2/3の部分をホテルに用途変更し、1960年3月22日にホテルニュージャパンは開業しました。

建物の構成は「Y字型」で、全室から景色が見られる設計だったとのこと。

全体の平面構成は、120度の角度で接続する大きな「Y字型」(昭和30年代に流行したスターハウス形式)を中心に、さらにその先端にやはり角度120度で同じ奥行きの「Y字型」の枝が接続するという、いわばフラクタル構造の形をした建築であった。これは全室から景色が見られるよう意図したものであるが、その結果まるで迷路のような内部空間となってしまい、後の火災発生時にも避難を困難にした原因のひとつともなった。これには最初同ホテルが高級レジデンスとして計画された影響も大きかった。

引用:ホテルニュージャパン

宿泊ホテル以外にも、大中小14の宴会場と舞台付100畳敷の広間、ショッピングアーケード、高級レジデンスなど都市型多機能ホテルとして躍進。

TBSや日本テレビ、国会議事堂から近い立地もあり、政財界・芸能界の結婚式や、外国人歌手の来日ホテルとしての利用も話題になりました。

ですが経営赤字が続き、大日本製糖の大株主の横井英樹氏率いる東洋郵船が、ホテル業界進出も狙って買収。

横井英樹氏が社長に就任し、経営にあたることとなりました。

しかし経営は徹底した合理化策で、安全対策予算が削られ、館内のスプリンクラーは作動しないまま、消防設備・館内緊急放送回路も故障したまま放置。

消防署の再三にわたる「館内防火管理体制を改善する」指導も、横井氏は予算不足を理由に無視し続けていたと報じています。

ホテル経営については完全な素人で、企業経営についても知見の無い横井の「経営方針」は、人員の整理や経費削減といった法をも無視した徹底した合理化策であった。このため安全対策予算が削られ、館内のスプリンクラーは作動しないまま、消防設備・館内緊急放送回路も故障したまま放置し、国内で起きた火災史上最悪となる118人の犠牲者を出した「大阪千日デパート火災」を教訓として1974年に改正された消防法に基づき、東京消防庁麹町消防署より再三にわたり「館内防火管理体制を改善する」よう指導されていたが、横井は予算不足を理由に無視し続けていた。

引用:ホテルニュージャパン

そんな中、1982年2月8日、宿泊客の火の不始末を原因とした火災によって、ホテルニュージャパンは死者33人を出す惨事に見舞われました。

お読みいただきありがとうございました。

亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

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